今年に始まったことではないが、環境問題が大きく騒がれている。僕は環境汚染が問題視され始めたころに生まれたので、たとえ意味はわからずとも、小さいころから『光化学スモッグ』や『エルニーニョ現象』といった言葉を聞きながら育ってきた。しかしそんな状況にありながら、それ以上の関心も持たずに成人してしまったというのもまた事実である。
それが最近は変わってきた。環境問題に興味がある。原因は就職のため。なんとも不純な動機と思われるかもしれない。しかしそれだけではない。試験対策のために新聞を読み始め、環境の記事を読んでいたのは事実だが、本当に地球が危険な状態にあるんだなということがわかった。
環境問題というのは産業革命以後急浮上して現在に至っている。産業革命の技術進歩への貢献は大きかった。そのおかげで僕たちは豊かな暮らしをしている。しかしそのしわ寄せとして国内のみならず、国際的な格差も生み出す結果となり、先進国のせいで貧しい国の人々の生活が脅かされている。
しかし途上国の人々は異常気象の原因が環境汚染にあることに気づいていない。なぜだかわからないがおかしな気候になった、としか考えることが出来ないのだ。このような人々を助けることが出来るのは先進国しかいない。
もちろん先進国はその責任に十分気づいている。だからこそ京都議定書やバリロードマップでいろいろな議論が行われているし、それによって関心も高まっている。しかし今日本国内で、何か間違った意見が出ていないだろうか。
『中国とインドは新たな義務を負うべきだ。』
まるで中国とインドが悪者のような扱いを受けているような気がする。急成長を続ける中国とインドの二酸化炭素排出量はたしかに見逃すことが出来ない。しかし、だ。日本は何かやっているのか。日本国民はなにかやっているのか。
答えは『NO』に近いと思う。『エコ』という言葉はよく聞くが、そのために何かをしている日本人は少数派だと思う。自分たちが何もしないで、なにが『中国とインドは』だ。日本は排出量削減義務を忠実に守っていくべきではないのか。


日本国内だけで見ても、各世紀でさまざまな問題があったろう。内乱や戦争、飢餓などがあって、そして現在は環境問題がある。ふと思った。いつの時代に生まれるのが一番幸せだったのか。
『生活の豊かさ』や『安全』という面で見れば、間違いなく今が一番である。しかし、科学技術の発展によって『地縁的・人的結合』や『心の豊かさ』は間違いなく衰えていった。そういう面から見ると地域ごとに共同体を形成していた大戦前までの方がよかったのであろう。またそのような時代には環境問題などなかったはずである。しかしその時代には『安全』や『生活の豊かさ』というものはない。
現在直面している環境問題を克服するには、生活するうえである程度の犠牲は覚悟しなければならない。もちろん原始の生活に戻れ、などという過激なことは言わないが、自分たちの子孫のためにある程度の我慢は必要だということを私たちはしっかりと心においておかなければならないと思う。